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本日、2020年12月01日の晩婚パパの育児日記の主な演目は【おばあちゃんとのしばしのお別れが教えてくれたこと】について。
おばあちゃんのご来訪、5日目。
今日はお昼頃の電車にて、おばあちゃんが自宅へとお帰りになります。
あおばはその時間は学校なので、おばあちゃんとの暫しのお別れは、朝の登校時でした。
おばあちゃんとのお別れ時の様子より:子供は『たった今・その瞬間』を生きている
今朝のあおばは、ちゃんと早起きでした。
今日、ばばちゃんが帰ってしまうことを分かっていたからだと思います。
(「ばばちゃん」は、あおばがおばあちゃんを呼ぶ時の呼び方です)
寂しい気持ちの表れが、朝食の席での会話にもありました。
と一言、言った後・・
ばばちゃん、今日、帰っちゃうんだよね・・・
と、残念そうに。
家と学校との距離はかなり近いのですが、「小学校低学年のうちは」と、ママがいつも登下校の際は一緒に送り迎えをしています。
あおばとしては、下校時にママが迎えに来てくれることは、やはり「とても嬉しい」のだと思います。
だから最初、「今日はお別れの日だから帰る前に一度、ばばちゃんにも迎えに来て欲しいなぁ」と思ったのだと。
少しばかり「シュン・・」とはした様なものの、そこは出掛ける前の朝時間。
パタパタと準備を急がねばならない時間が直ぐに迫ってきました。
そしていつものようにギリギリの時間となり、慌て気味で玄関へ。
あおばはあまり振り返る様子もなく、
と言うや否や、玄関を出て行きました。
「遅刻しないように」との想いもあったのかもしれませんが・・
僕のほうが先に家を出る場合もありましたので、ばばちゃんとのしばしのお別れの際の模様については、当然毎回あおばの様子をみているわけではないのですが・・
以前、同じような場面に接した時も、今日と同じような感じだったかと思います。
ばばちゃんを含めた大人側としては、“しばしの別れ”を惜しむ気持ち・意識が強いのですが、あおばの側にはその意識はあまり感じられなかったように。
やはり、子供は『たった今・その瞬間』を生きている。
そのように感じられたことを、思い出しました。
まだまだ、あおばは『たった今・その瞬間』を生きている、ようです。
登校前の一コマより
今朝、あおばの登校時間がギリギリとなってしまったキッカケを作ったのは僕でした(苦笑)。
そのキッカケは、 朝、テーブルの上に、昨日皆でやった“古今南北ゲーム”で使ったメモ用紙が残っているのをみつけてしまったこと。
『鳥の名前』をテーマとした“古今南北ゲーム”で、僕が選んだ “NGワード” は、「十姉妹」でした。
朝、そのメモ用紙を僕がみていたところ、あおばがふと呟きました。
と。
そこで僕は、
「何いっているの?いるに決まってるじゃん!」
という感じで、家にある鳥の図鑑のページを捲ったのでした。
するとどうでしょう・・・ 確かにあおばの主張通り、十姉妹の名前は鳥類図鑑からも生き物図鑑からも消えてしまっていました。
しかも、1冊ではなくてウチにある図鑑の両方(2冊)ともから(驚!)。
その結果をみて、あおばはまるで勝ち誇ったかのような顔をして
と。
と慌てて、僕はその場をクローズしたのでした。冷や汗をかきながら‥(苦笑)
で、その後、改めてネットで調べてみて分かりました。
十姉妹が鳥の図鑑に載っていなかった理由が。
以下は、ウィキペディア(Wikipedia)からの引用となります。
ジュウシマツ(十姉妹・学名:Lonchura striata var. domestica)とは、スズメ目カエデチョウ科の鳥。ヒトの手によって作り出された家禽で、野生種は存在しない。
なるほど、ジュウシマツって家禽で、野生種が存在しないから鳥の図鑑には載っていなかったのですね。勉強になりました。
というか‥ “知っている・分かっているつもりになっていても、実はキチンとは理解していないことが多い” ということを、改めてあおば(子供)の指摘から教えられました。
ちなみに、ジュウシマツが家禽だから図鑑に載っていなかったことに関しては、後ほど説明をして、あおばにも納得をしてもらえました。
ジュウシマツの誤解のアトシマツが出来てよかったです(笑)。
普通の古今東西ゲームはお題(テーマ)に対する回答を思いつかなかった人が負けとなりますが、古今南北ゲームではそこに “NGワード” が加わります。
“NGワード”はゲーム参加者一人ひとりが設定をし、メモなどに書いて他の参加者には伏せておきます。
古今東西ゲーム同様にゲームを進めていく過程で、回答できなかった場合に加えて、回答として“NGワード”を言った場合も負けとなるルールです。
ちなみに、このゲームの考案者はJAGA(日本ゲーム協会)の小林名人とのことです。
帰宅後の様子より(習い事を挟んで):子供は今も過去も全てを丸ごと全力で生きている
今日は放課後に、地区の教育委員会が主催する『学び&ゲームの会』がある日。
放課後はママが車で直接学校へ迎えに行き、そのまま会が開かれている地区会館へ。
今回も、学習時間の後、先週やって大いに気に入った新ゲームをやらせてもらったそうで、「楽しかった~」と。
そのような時間の流れがあった後での、帰宅でした。
ですので、下校 → 帰宅 → ばばちゃんの不在
と、ダイレクトに「帰っちゃったんだ・・・」と感じる流れではありませんでした。
それは良い方に作用したのではないかと思います。
帰宅すると、居間のテーブルの上に、ばばちゃんからのお手紙とお小遣いが残されていたことに、直ぐに気がつきました。
即開封し、嬉しそうに手紙を読んでいました。
お小遣いはとても大事そうに、貯金箱に入れてました。
その後は、日常にスゥ~と戻っていったように感じました。
もしかして・・・ この5日間にばばちゃんと共に過ごし経験した様々な出来事も、『今・この瞬間』を生きているあおば(子供)にとっては、既に「過去のものになっている?」とすら思うほどに。
でもそんなことは、ありませんでした。
夕食時の食卓で、僕がばばちゃんのことにふれた時のことでした。
と、言っていました。
その言葉を聞いて、その時の様子をみて、今朝感じた想いに“足りていない点”があることに改めて気づかされました。
今朝感じた想いは、以下の想いでした。
その想いはそれで、間違ってはいないと思います。
でも同時に、「それだけでもない」と、感じました。
子供は、『今・この瞬間』を、それこそ身体全体で100%の感情を注いで生きている。
だからといって、今と前だけを向いているわけでも決してない。
過去や思い出もしっかりと感じながら、時にはパッと振り返ったりもしながら、『今』を生きていると。
思うに・・・
今朝や以前に感じた想いに足りない点があったのは、自分自身が『今を懸命に生きる』ことができていないからなのだと。
子供は、今も過去も全てを丸ごと全力で生きている。
それができていない・できなくなっている大人は(自分は)、その姿が眩しすぎてしまう。
眩しすぎることに目を眩ませられて、あたかも子供の想いが「もう、薄らいでいる?」といった感じで、解釈をしようとしてしまっていた・・
本当は自分ができなくなっているくせに・・・
どうもその事実に、気づくことができたように感じます。
あおばがみせた、“おばあちゃんとのしばしの別れとその後の様子” から、大切なことを教えてもらった気がします。