毒を以て毒を制すと同じ?「運動を以て筋肉痛を制す」的な子供の話しが面白く

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本日、2021年04月13日の晩婚パパの育児日記の主な演目は【子供の筋肉痛って?】(笑)になります。

本日の起床時、あおば(ウチの子供)は

あおば
筋肉痛で足が痛い‥

と言っていました。

実際、朝ごはんの時などもいつもよりかなりテンションが低めでしたので、本当に痛みというか不快な鈍痛を、身体に感じていたのだと思います。

そのような感じでしたので、本日の学校の授業に体育の時間があると聞いて、「大丈夫かなぁ?」と少しだけ心配をしていたのですが‥ それは杞憂に終わり安心しました(笑)。

大人の経験に基づく感覚と子供の感覚は異なることを前提として

とても当たり前のことですが、大人は、自分たちが心身ともに段階を踏んで成長してきたことを経験上わかっています。

自分の身体も考え方も、年を追うごとに変化してきたことを。

そのことはもしかしたら、考え方・志向の面よりむしろ、“肉体的な変化” のほうが「大きいのかもしれないなぁ?」と、あおばの様子や言葉を聞いていて感じることがあります。

その1つの典型的な例が、本日の演目(話題)の《筋肉痛》。

まぁ、大人といっても人それぞれなので、大人であれば誰もが同じような感じ方になるというわけでは、もちろん「ない」です。

ここではその大前提を踏まえた上で、運動部・体育会系の部活動経験を持っている大人の場合は、という観点から話しを進めていきたいと思います。

運動部経験者にとっての《筋肉痛》という言葉の響きには、相当にシンドイあの・・痛みが脳裏に焼きついていることと思います。

普通に立ったり座ったり歩いたりするだけで「イタ・タ・タ・タタァ…」となっていたあの苦い記憶が(苦笑)。

ですが、それも多くの人にとっては、中学校での部活以降の経験なのではないでしょうか?

小学生に対して、そんな筋肉痛を引き起こす段階までトレーニングをさせる所はあまりないと思いますので。

要は、大人の使っている《筋肉痛》という感覚は、10代以降の段階を経験しているからこそ感じているものである、ということです。

一方、あおばは小学校3年生につい先日なったばかりで、まだ8歳。

体育教室の習い事でも、スキー教室の習い事でも、当然ながら8歳の子供に対してはハードなトレーニングなどを課すことはありません。

ですので、僕が知っている《筋肉痛》のあの感覚を、同じ感覚として理解することがあるような機会をあおばが持ったことは、今のところまだありませんし、当面暫くの間はないとも思います。

ですので、あおばが《筋肉痛》という感覚を、本当の意味で僕と共有するようになるのは、“まだまだ先のこと” になるのだと思います。

しかも、場合によっては、その機会を持つことは「ない」のかもしれません。

そして、そのことを理解しているのは「親の自分達の側だけ」である。

そ事実を、親である大人は、忘れてはならないと感じます。

というのも、それは《厳然たる事実》である一方、我々親の側・大人の側は、日々の子育て・育児の中でついついその事実を、“忘れてしまいがち” であると感じるからです。

同時に、大人である親の側は、子供たちがその点に対して “無自覚的である” ことも、忘れてはならないと思います。

小学校高学年以下の子供たちにとっては、自分たちが感じている「今・現在」の感覚が世界の全てであり、親などの大人たちが感じているような別の感覚・世界があることは、まだボンヤリとしか掴めていないことを。

親である自分と、自分の子供が使う言葉の間には、たとえ同じ言葉であっても感覚的な開き齟齬そごがあることを、いつも頭に入れておく必要がある。

あおばが使った《筋肉痛》という言葉を、朝に聞いた時点では、自分の “大人の感覚” で捉えてしまっていたことを振り返り、改めてそのように自戒しています(苦笑)。

体育の授業で頑張り・活躍!「筋肉痛はなくなってた」との話しを聞いて

なぜ、改めてそう反省をしているのか?

その理由は、学校から帰って来る時のあおばの様子と学校の体育の授業での話しを聞いたから。

とても元気に帰ってきて、プラス体育の授業では活躍もしたそうでした。

あおば
今日は体育授業で汗だくになっちゃった!

開口一番、嬉しそうにそう話した後に、どんな内容の授業であったかを聞かせてくれました。

その内容は、新聞紙を胸の前に当て、新聞紙を持たずに手を広げた状態のまま走って、できるだけ長く新聞紙を落とさないように走る、というものでした。

確かに、それを繰り返しやったら汗だくになりますね(笑)。

それで、

晩婚あおばパパ
なるほど~ それはハードそうだね。それをやったら確かに汗だくになるよね

と返したところ、あおばは、

あおば
うん。そうなんだけど、でも思い切り走ればいいってもんじゃないんだよ。ちゃんとコツがあるんだぁ~

と、得意そうに話してくれました。

そして、「それでね」と、続きを嬉しそうに話し出しました。

あおば
先生が「最後に誰が生き残るかを競おう」って言い出したんだよね。そう聞いて最初は、ちょっと嫌な予感がしたんだけど‥

と、こちらの気を引く感じで話しを進めていきます。

小学校3年生に進級してから、あおばの学級は「複式学級」となったのですが、こと体育については(他に音楽や図工などもそうですが)、小1の時分から上の学年との合同授業でした。

ですので、体育の授業は3年生と4年生が合同で行っています。

ということなので、「最後に誰が生き残るかを競う」という場合もまた、同学年同士だけでなく上級生の4年生とも競い合うことを意味します。

そのような条件の下で男女別に分かれた中、あおばは3年生ながら最後まで生き残ったそうでした。

あおば
最後は4年生の子と一騎打ちの状態だったのだけど、1番最後まで落とさなかったんだよ~!

と、誇らしげに話しをしてくれました。

大人との感覚の違いにより「運動を以て筋肉痛を制す」的な子供の話しを面白く感じて

体育の時間まで筋肉痛の感覚が残っていたのかどうかについては、分かりません。

体育の授業は5時間目で最後の枠でしたので、おそらくその時間帯には、筋肉痛の感覚は残っていなかったであろうと思います。

ですが、大人の感覚からすれば、そうであっても体育の時間に思いっ切り走り回ったりすれば、治まっていた痛みもまたぶり返すのではないかと感じてしまいます。

ところが‥ あおばの話しを聞いていると、真逆のような印象を抱きました。

「毒を以て毒を制す」が如く、「運動を以て筋肉痛を制す」であったかのように。

運動をして動き回って汗をかいたからこそ、筋肉痛も治ったかのように。

実際のところ、どうであったのかはよく分かりません。

また、そのことを追求しようとは思いません。

あおばから体育の授業の話しを聞いて感じたことを次の2つの点でした。

1つは、運動に対しての自信が本当に深まってきているようでとても嬉しく感じた点

もう1つは、先にふれた点でした。

親である自分と、自分の子供が使う言葉の間には、たとえ同じ言葉であっても感覚的な開き齟齬そごがあることを、いつも頭に入れておく必要がある。

登校前の朝の様子と下校後の嬉しそうに話しをしてくれた際の様子との大きなギャップと共に、この点を胸に留めておきたいと感じました。

そして、その想いと共に取った行動は、「温泉」へ行くことでした。

というのも昨日は、外遊びと体育教室の両方で合計5時間近くも連続して運動をしていたので、本日はその疲れが残っていた可能性は「大」でした。

プラス、本日の体育の授業で何回もダッシュをしていたので、身体は結構疲れているかもしれません。

そうした疲れをほぐすには、筋肉痛などを和らげるには、「温泉」は最適ですので

そうした環境を整えておいてあげるのもまた、経験豊富な親の務めかと。

あおば本人はもうスッカリ、朝、「筋肉痛‥」と言っていたことなど覚えていないかのようでしたが(笑)。

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