藤井聡太一家の幼児教育の具体例に理想の効果や大切なことを学ぶ

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本日の演題は【藤井聡太一家の幼児教育の具体例などに「理想の効果」や「大切なこと」を学ぶ】です。

幼児期・幼少期の子を持つ親であれば誰もが願うこと、それは「子どもに幸せに育って欲しい」との願いだと思います。

では、幸せに育つとは、どのように育つことでしょうか?

ご家庭ごとにさまざまな想いがあるとは思いますが‥‥
当記事では次のように考えていきます。

子どもが「自己の才能・能力」を自分らしくノビノビと発揮できること。
才能・能力を存分に発揮できる “大好きなこと” を「仕事」にできれば、なおよし!

そんな理想像をいま、私たちに最も感じさせてくれる実例は、将棋の天才棋士《藤井聡太さんご一家の具体例》ではないでしょうか。

藤井聡太さんの天才性のカギは「うじより育ちにあり!

つまり、持って生まれたものより、ご家族が彼に与えた「幼児教育・幼少期の教育」にこそ、カギ・秘訣がある! ということ。

当記事は、当ブログの関連記事『藤井聡太棋士の天才性と強さの理由を読み解く』を書く際に調べ上げた多岐に渡る情報と、“独自の着眼点” をベースに作成しました。

藤井聡太さんが「なぜあれほど強いのか?」「その天才性の理由はどこにあるのか?」 については上述の関連記事を読んでいただけると幸いですが、当記事では、《その能力・才能がどのように育まれたのか?》を、ひも解いていきます。

子ども(&孫)に「才能を与えたい!」と考える親・ご家族の方に、オススメの内容です

藤井聡太一家の幼児教育が教えてくれる1番大切なこと

藤井聡太一家の幼児教育の具体例に、「理想の効果」や「大切なこと」を学ぶ。

このテーマにおいて、まずは、1番「大切なこと」を確認しておきたいと思います。

藤井聡太一家の幼児教育が教えてくれる1番大切なこと、それは「見守る」姿勢であり、その姿勢の基盤となるのは、子どもを一人の人間として「尊重する」ことです。

藤井家の幼児教育のモットーの一つ「子どもには子どもの時間がある。大人はそこに立ち入ってはいけない」との考え方も、子どもを尊重し、その気持ち・意思を重んじるがゆえ、まずは大人の考え・見方を介在せずに「子どもを見守っていこう!」とのスタンスの表れだと捉えられます。

「見守る」、「子どもには子どもの時間がある。大人はそこに立ち入ってはいけない」。

親・家族がそのような姿勢で子どもに接するということ、それは子どもにとっては、家・家庭が「安全基地」になっている、ということ。

親が子どもを「信頼する」からこそ、子どもも親に対して全幅の「信頼を寄せる」。

安全だからこそ
集中できる。
信頼しているからこそ
集中できる。

藤井聡太さんの、あの並外れた「集中力」は、そのようにして “育まれていった” のだと思います。

藤井聡太さんのご家族のそのような姿勢については、彼の「将棋の師匠」である杉本昌隆すぎもとまさたかさんが、自著『弟子・藤井聡太の学び方』の中で、以下のように述べてますので、抜粋・引用します。

(P39より)
~前略~
家族が本人のしたいように、自由にのびのびとさせた結果だと思います。将棋とは無縁なご両親ですが、大人が子どもを温かく見守っている家庭です。息子の夢中になる遊びには、大人の側もとことんつき合って一緒に遊んだといいます。
「子どもがやりたいことは、できるだけやらせよう」「子どもが何かに夢中になっているときは、邪魔をしないようにしよう」と心がけていたお母さんは、将棋を指す機会を求めて将棋大会などにも連れて行かれていました。

見守る」ということは、別の言葉で言い換えれば、「子どもの自発性に任せる」ともいえます。

その際に気をつけるべきことは、何も難しいことではありません。

大人に対する人材教育でも同じですが、「教える(=ティーチング)」意識でいると得てして、相手に対して「どうしてできないのか?」「なぜ、わからないのか?」という気持ちが生じやすいものです。

一方、「導く(=コーチング)」意識でいれば、相手が自発的に動き出すのを “待つ”、ないし、動き出すキッカケやタイミングを逃すことのないように “観察する”、という気持ちに、自然となれるものです。

同様に、「導く(=コーチング)」という意識でいれば、相手の行動をイメージしたように導けない場合の責任は、相手側にあるのではなく、「自分のやり方に問題があるのでは?」と、考えるようになるものです。

ましてや、幼児期・幼少期の子どもは、すべての面において “発達中・発展途上” の段階なので、たとえ大人が手取り足取り教えたとしても、大人と同じようにできるわけがありません。

見守る」とは、そうした点をわきまえてあげ、「じれったい‥‥」とか「どうしてできないの‥‥」と感じてしまう気持ちを抑え、少しばかり辛抱して “待つ” というとてもシンプルなことなのです。
しかしながら、この「辛抱する・待つ」との行為はシンプルながらも、言うは易く行うは難しで、その意識を常に持ち続けていないと、ついつい手出し・口出しをしてしまいがちなので‥‥、その点には十分注意が必要です。

理想的な幼児教育方法はハードル高い?

藤井聡太さんのご家族の幼児教育法・教育方針を端的に表現する言葉として、「見守る」という “キーワード” は、よく紹介されています(当記事もそうですが(笑))。

この「見守る」という言葉については、次のように感じる方もいるのではないでしょうか。

ある保護者さん
確かに理想的な幼児教育方法なのかもしれないけど‥‥それって、実はハードル高くない?

と(苦笑)。

その点については、藤井聡太さんのお母さんの発言で、とても参考になるものがありますので、紹介します。

この発言を知ると、聡太さんの母・裕子ゆうこさん自身が、「そんな、理想の母親像みたいに思われた困っちゃうは(苦笑)」と感じているであろうことが、伝わってくるかと思います。

以下、書籍『藤井聡太 天才はいかに生まれたか』からの抜粋・引用です。

(P47より)
幼い藤井が負けて泣き、母に連れられていく姿は、当時、よく見られる光景だった。母はとりあえず、他の人に迷惑がかからないように、外に連れていき、藤井が落ち着くのを待っている。
「私も、ずっと優しく見守っていたわけじゃないんです。けっこう私も、ぶつぶつ言うんですよ。『泣いてもしょうがないじゃん』みたいに。記事ではよく『お母さんはずっと優しそうに待っていた』みたいな感じになっていますけど(笑)」(裕子)

ということで、この発言内容を読んで、肩の力が「スゥ~」と抜けた方も多いのではないでしょうか(笑)。

理想的な幼児教育方法といっても、親や家族がなにも聖人君主みたいである必要などはなく、ハードルがとても高いというわけでも「ない」ことが、おわかりいただけたのではないでしょうか。

とはいえ、お母さんが息子・聡太さんに語り掛けた言葉が、『泣いてもしょうがないじゃん』などであったという点は、大事なポイントです。

その言葉は、子ども・本人に向けてのみ・・・・・発せられた言葉であって、周囲の目や親の自分の立場などが意識されたうえでの言葉ではありません。

ただただ、“子どもと真っすぐに向き合っていた” うえでの言葉であったことを、ぜひとも見習いたいところです。

このようなご家族の「見守る」行為の積み重ねにより、聡太少年は安心して、心おきなく自分の世界に没入することができ、日々そのように過ごしているうちに、あの驚異的な「集中力」を自然に獲得していったのだと。

藤井聡太一家の幼児教育が教えてくれる「1番大切なこと」、それは「見守る」という姿勢、でした。

藤井家が聡太さんに与えた幼児教育としては「モンテッソーリ教育」も有名なところですが、モンテッソーリ教育による効果が遺憾なく発揮されたのも、その土台・前提として、藤井家の子どもを見守る」という姿勢があったからこそ、です。

幼児期・幼少期にモンテッソーリ教育・教具で学べば(遊べば)、誰もがあのような「超天才」となるわけではありませんので、残念ながら(笑)。
(※モンテッソーリ教育については後ほど別章でもふれます)

藤井聡太さんが「超天才」に育ったのには、藤井家の「見守る」との確固たる教育方針がベースにあったうえで、モンテッソーリ教育を始めとしたさなざまな具体的な事柄が、奇跡的!? といってもよいほどに絶妙に織り重なっていったから、だと考えます。
(※具体例については後ほど別章にて)

1番大切なことは
『見守る』姿勢

なにも難しいことではないので、それだけで「あれほどの才能・能力が育つの?」 あるいは、「あの才能・能力は持って生まれたものなのではないのか?」 と、感じた方もいるかとは思います。

そこで次に、藤井聡太さんおよびご家族の実例は、特殊なケースであったのかを検証してみます。

藤井聡太はギフテッド?

上掲画像は「藤井聡太さん」についての情報を得るために読んだ書籍類の一部です。

とある保護者さん
藤井聡太さんはギフテッド(=天才)なのだから、彼のケースは、わが家には当てはまらないんじゃない?

と、お考えの方もいるかと思います。

そこで、ギフテッドの定義の(再)確認と、彼が生まれ持っての能力・才能だけで活躍しているわけでは「ない」ことの2点を、確認しておきたいと思います。

ギフテッド』と、Googleで検索すると、次の 【強調スニペット】 表示がされますので、引用します(2023年1月現在)。

「ギフテッド」とは、英語のgiftedの単語に由来しています。 これは、「天賦の才をもつ人々」という意味で、同世代の子どもよりも先天的に高い能力を持っている人のことを表しています。ギフテッドの人は、特定の学問や芸術性、創造性、言語能力などにおいて高い能力を持っています。2022/12/13

引用内容出典先:ギフテッドって何?特徴や教育方法について解説します

なお、「ギフテッド」かどうかについては、専門家による診断が必要となります。

藤井聡太さんについてはさまざまな書籍・情報に当たっても、「彼がギフテッドである」 との記述・情報はなかったので、専門家による診断を受けたことは “ないのではないか” と推測できます。

一方、あの飛び抜けた天才っぷりはどうみても「ギフテッドでしょう!」と思わされるのですが、実は、他の優秀な棋士の方たちの情報についても彼と同様で、“ギフテッドである”という明確な情報を目にすることはありませんでした。

逆に言うと、この事実は、次の内容を物語っているのではないでしょうか。

プロ棋士は全員「ギフテッド」である、と。
(=診断を受けるまでもなく「明白」だった、と)

東大には毎年約3,000人が入学するのに対し、全国から精鋭が集まる奨励会(会員数は約200名)を抜けてプロ棋士になれるのは、基本的に年にわずか「4名」だけ。

ギフテッドの割合はおおよそ「50人に1人」と言われていることを鑑みても、“プロ棋士は全員「ギフテッド」である” は、間違いないところです。

彼らは(残念ながらいまのところプロ棋士の女性は0人で「女流棋士」は別枠です)、精鋭集団の中の「50人に1人」なので、プロ棋士になれる頭脳・能力を持つのであれば、それは「=ギフテッド」の構図が当てはまります。

つまり、将棋界とはもともと、「天才だけの集まり」ということです。

ということは逆に、次のように考えることができるのではないでしょうか。

皆、天賦の才という素質を持って生まれているので、プロ棋士として戦績の優劣は、才のあるなしではなく「環境要因」によって決まる、つまり、『うじより育ち=遺伝より教育』ということに。

【参考】
奨励会のメンバーは毎年総入れ替えとなるわけではなく、年齢制限の年齢(26歳)をこえるまでは、複数年在籍できます。

なお、幼少の頃の藤井聡太くんはまだ、ズバ抜けた存在ではありませんでした。

以下、書籍『頂へ 藤井聡太を生んだもの』からの抜粋・引用になります。

(P60より)
「初めの頃は全然目立つ成績じゃありませんでした。単にやんちゃで元気な男の子という感じで」。研修会を運営する竹内努は説明する。七歳の聡太の通算成績は二十一勝十九敗で勝率は五割そこそこ。これが八歳になると六十勝二十八敗で七割近くに跳ね上がる。そのまま一気に伸びるかと思えばさにあらず。九歳では四十九勝四十敗で再び五割半ばに。着々と積み上がる黒星が、当時の研修会のレベルの高さを物語る。「研修会の子は相手によってきちんと対策を立ててくる。工夫して弱点を突くのは当たり前。そうじゃなきゃ成長しません」と竹内。

研修会というのは、プロ棋士への登竜門となる「奨励会」の事前段階のレベルです。

当時の聡太少年は、まだその段階でも結構苦戦を強いられていたので、「神童」と呼べるほどの存在ではありませんでした。

幼少期の聡太少年は、詰将棋で鍛えた抜群の終盤力という武器を持ちながらも、序盤はまだまだ苦手としており、明確な “弱点” を抱えていました。

したがって、かの藤井聡太をもってしても、“生まれついての超天才” であったわけでは「ない」、ということなのです。

当たり前といえば当たり前ですが(笑)。

とはいっても、あれだけの “超天才” ですので、生まれ持っての「素質」といえる特性・特徴を持っていたのも確かなようです。

次に、その点を確認してみたいと思います。

藤井聡太の天才性の原点は?

藤井聡太さんの天才性の「原点」は何か?

まずは、ご両親から受け継いだもの、「氏か育ちか?」のうちの、氏に当たる「遺伝的なタイプ」を確認してみます。

以下、(先でも紹介した)書籍『藤井聡太 天才はいかに生まれたか』からの抜粋・引用です。

(P48~49より)
長年にわたって子供たちを指導してきた竹内努は、付き添いできている保護者を見て、ある共通点に気がついた。子供の対局が終わるのを待っている間に、親はいろいろなことをしている。その中には、数独をやっている親がいる。その親の子には、だいたい将棋の才能を感じるという。竹内の記憶では、藤井の両親がそうだった。
「親がクロスワードパズルをやっているよりも、数独の方が、将棋向きの家庭なのかもしれんね。詰将棋の得意な棋士の親にアンケートを取ってみたら、数独をやっていたって人が多いんじゃないかな」
藤井は幼稚園の時にはすでに、九九を言えるようになっていた。また、四つの数字を、足す、引く、掛ける、割るの四則演算で10にする、「メイクテン」をよく考えた。そうした数理的な要素は、幼いころから身についていたものだった。

聡太さんのご両親が、クロスワードパズルではなく「数独」をされていた、という事実からすると、次のような推測もできます。

父親の正史さんは住宅メーカーに勤務しているとのことなので、工学部や理工学部の建築科で学んだ「理数系」の方なのではないか、と。

母親の裕子さんは、専業主婦なので推測はできませんが‥‥、ご両親とも「数独」をされていたのであれば、やはり!「数字好き=理数系」の色が濃い家系である可能性は高いように感じられます。

【補足】
当記事公開後、追加加筆&関連書籍チャックを続けている中で、見落としに気がつきました。ご両親は共に、「文学部」出身の文系の方でした。
出典書籍『考えて、考えて、考える』丹羽宇一郎・藤井聡太共著(P110より)

なお、上掲同書の104ページには、聡太さんの発言として、家の本棚に『博士の愛した数式(小川洋子著、新潮社)』があり、彼自身が読んでいたことも書かれています。

『博士の愛した数式』は映画化もされたベストセラーなので、その本があるからといって「数字好き」と言うのもどうかな?とは思いますが‥‥ 逆にベストセラー書も数多くあるので、「数字嫌い」の人が同書を手に取ることも「ない」のではないでしょうか。

ということで、以下の2つの推測を追記しておきます。
(1)ご両親は共に文学部卒だが、同時に数字に対する興味・関心も持たれている。
(2)ご両親は共に、息子の数字好きに「寄り添う」ために、自分たちも数独をやるようになった。

(1)の仮説なら「資質面」の部分で、(2)の仮説なら「環境面」の部分でと、いずれにしても乳幼児期の聡太さんに、“良い影響を与えることにつながった” のではないかと推察します。

聡太少年が幼い頃から「数字好き」であった点については、『デイリー新潮』のWebサイト記事『“天才”藤井聡太、幼少時から見せていた「棋士の片鱗」 祖母語る』にもありますので、引用します。
(上が母親の裕子さん、下が祖母の育子さんへのインタビュー内容)

「聡太が歩けるようになったのは1歳2カ月、意味のある言葉を話せるようになったのは1歳6カ月くらいから。周りと比べてちょっと遅いかな。
変わったことと言えば、小学校に入る少し前、ピアノ教室に通っていた時にこんなことがありました。8分音符というのは、4分音符に旗のようなものが1本付きますよね。
聡太はピアノより“これは旗がいくつあるから何分音符だ。4分音符の何倍の速さだ”という計算が好きで、旗を20個くらい付けて、“これは何分音符だ”などと計算するのに熱心。音楽より数に興味があったようです」

「鉄道が好きで、駅のダイヤを丸暗記してしまうんです。時刻表を端から端まで覚えていて、どの電車に乗ると目的地にいつ着くのか、すぐ教えてくれました」

この「数字好き」という点は、論理的思考やパターン思考を必要とする “将棋の素質” と、深く結びついていると考えられます。

やはり、親から受け継いだ「資質」が「素質」となり(あるいは「環境面」でのサポート・伴走に伴い)、将棋の才能を大きく開花させていった面があるようです。

この《藤井家において聡太少年が歩んだプロセス》は、手元にある第17刷版の帯に “幼児教育界に衝撃を与えた不滅のロングセラー” との記載がある、脳科学研究の第一人者とも呼ばれる澤口俊之氏著の書籍、『幼児教育と脳』の以下の内容と見事に合致しています(以下、同ヵ所を抜粋・引用)。

(P135より)
~前略~
子どもたちにはそれぞれ得意とする知性があり、その知性こそが天才的なレベルまで高まるのだ。
~中略~
だから、得意とする知性を見つけることが何よりも大切だ。そして、多重知性の各々は六〇%ほど遺伝し、互いに関連が薄いので、ある子どもにとってもっとも得意とする知性が生まれながらにあることが多い。「多い」というより、ごく特殊な例外をのぞけば、それが普通である。
その知性をいち早く見つけ、幼児のころから英才教育をほどこせば、その知性は環境要因による影響(遺伝による以外の残り約四〇%)と相俟って豊かに発達することは疑いない。
その知性を見つけるコツは、両親の知性を見ることだ。子供を注意深く観察することだと思うかもしれないが、一~二歳の幼児では、その幼児が得意とする知性を見つけることは困難である。しかも、集中的な脳教育は早くは始めれば始めるほどよい。そして、その期間は八歳ころまで、長くともせいぜい十二歳までなのである。

【補足】
少し本筋とはズレますが、上掲引用部分にある『英才教育』という言葉が、該当部分だけを読むと “誤解を招く” 可能性があるようにも思うので、参考までに同書の著者・澤口氏が『英才教育』という言葉を用いている部分の内容も併せて、抜粋・引用しておきます。

(P133~134より)
「英才教育」というと拒否反応を示す方もおられるかもしれない。じっさい、親の欲目や見栄のためとしか思えない英才教育が氾濫していることは確かだ。しかも、IQ偏重の。
IQは多重知性の能力の指標となることは確かだが、IQを伸ばすだけのような英才教育はほとんど意味をなさない。端的に、IQはモーツァルトの音楽を十分聞くだけで10ポイントも上昇することが実証されている。IQ偏重の英才教育に精を出すことはこの一点だけで無意味に等しいことは納得されよう。

(同、P138より)
「適切な英才教育」で注意すべき点は「得意とする知性の発見とその遺伝性」だけではない。集中することや喜ぶことをさせる、というのもとても大切な点だ。
~中略~
熱中すること、あるいは、楽しく喜ぶことをする-これも知性フレームを豊かに発達させるコツなのだ。そして、多くの場合、自分が得意とする知性に関係することをすれば熱中し、楽しいものだ。このことが「教育の押し付け」がまずいことの大きな理由でもある(押し付けられたことなど、熱中しないし、楽しくもないではないか)。

藤井聡太さんは、ご両親から「数字好き」という資質を受け継ぎ、それにプラスして「適切な環境要因」にも恵まれたからこそ、あれほどの「能力・才能」を得ることができた、といえます。

次いで、その「適切な環境要因」について詳しくみていきたいと思いますが、その前に1つ、注意をしておきたい点があります。

藤井聡太さんといえば、幼い頃のあの “泣きじゃくる姿” があまりにも有名で、無類の「負けず嫌い」的に思われている面もあります。

天才性の原点・素質という意味では、「数字好き」という以上に、その「負けず嫌い」という面が強いでは?、と思われている節があるかとも推察できます。

その一方、現在の聡太さんからは、自己に厳しいスタンスは感じられるものの、勝負に執着しているような発言・様子は見受けられません。

たとえば、現在(2023年1月)、タイトル戦真っ只中の『第72期王将戦』の第2局、藤井王将が負けた棋戦の感想戦の様子を綴ったWeb記事『「なんなんだこの1手は」羽生善治九段が藤井聡太王将から勝ちをつかんだ“異次元の攻め”とは』には、以下のくだりがありましたので、引用します。

感想戦の動画を見ると、第1局以上に楽しそうだった。2人とも、将棋が好きで好きでしょうがない少年に戻っている。
それを正立会の谷川浩司十七世名人と副立会の稲葉陽八段が、ずっと正座を崩さずに見守っている。
藤井が銀を打ち込んだ局面、この代わりに何を指すかというところで稲葉が「AIが示した手なんですけど」と前置きして、自陣飛車の受けを示す。両者とも驚きの声を上げ、羽生が「ひょぇー、そうなんですか」と言うと、藤井が「常識的には自信ない」と言って、全員で笑う。
1週間後にはもう第3局があるというのに、A級順位戦最終局では藤井と稲葉が戦うというのに、なんという良い笑顔だ。60歳の谷川、52歳の羽生、34歳の稲葉、そして20歳の藤井が、年齢をこえ、ひとつの盤を挟んで、将棋の真理を追求する姿は美しい。

藤井聡太さんは大事なタイトル戦で “自分が負けた直後” であっても、とても楽しそうに話しをして、周りの笑いを誘う言葉を言っているのでした。

仮に、勝負に執着していたとしたら、そんな笑顔やジョークが出るわけはありません。

そこで、ちょっとした「問題提起」をしてみます。

藤井聡太さんの負けず嫌いの度合いは、元気のよい子どもであれば 「本来は」、誰でもあれぐらいなのではないか?

と。

ポイントは、「本来は」の部分です。

「藤井聡太=負けず嫌い」が幼児教育がうまくいかない典型例?

藤井聡太さんといえば、彼が幼い頃に紋付きはかま姿で “泣きじゃくっている” 映像が“あまりにも有名(笑)”です。

大勢の人を前にしても泣き止まない姿や、猛烈な勢いで泣きじゃくる姿などから、師匠の杉本昌隆さんを始め周囲の関係者の多くも、その才能の原点として、「負けず嫌いな点」をよく挙げています。

例えば、杉本師匠は、自著『弟子・藤井聡太の学び方』の中で、次のように書かれているので引用します。

(P33より)
お母さんに聞くと、トランプや花札をしても、勝つまで絶対やめようとしない。それは持って生まれた性分です。つまり天性の勝負師ということです。

でも、どうでしょうか?
それって、よくあることなのではないでしょうか。

かく言う私も、幼かった時分は勝つまで「もう一回」と何度もせがんだりしていましたし、負けて涙を流すこともよくありました。

でも、ある時を境に、悔し涙を流すことを止めました。

きっかけは、悔し泣きをしていることを、親に “からかわれた” ことでした。

負けて悔しいという思い以上に、“からかわれる” ことが 「もっともっと悔しかった」のです。

その負の影響があり、以降、私は「負けて悔しい」と感じる気持ちを、自ら封じ込めました。

親(いまでいう毒親)の心無い言動により、素直に感情を表すという “子どもらしい行い” を閉ざさざるを得なかった、ということです。

問題は、ここで挙げた私の実体験がレアなケースでもなんでもなく、似たようなことが実は、どの家庭においても起こっている・行われているであろうと、容易に予測できてしまう点です(悲しいかな‥‥ 毒親はそこら中にいるようなので)。

大人というのは得てして、自身もかつて抱いていた気持ちを忘れてしまい、子どもがとる行動を、“笑ったり”、“たしなめたり”、してしまいがちなのだと思います。

そうした行いは、たとえ悪気がなくても、子どもが持っている本来の「子どもらしいノビノビとした気持ちや行動」を、結果的に奪い取ったり・蝕んだりしてしまう。

聡太さんのご家族の素晴らしさは、聡太さんが「勝ってやめるまで」付きあい、聡太さんの行動・気持ちを揶揄やゆしたり、たしなめたりすることがなかった、という点です。

窘める(=反省を促す)というのは例えば、

ある親御さん
恥ずかしいからやめて‥‥

とか、

ある保護者さん
迷惑がかかるからやめなさい!

など、他者・周囲の目を気にして、子どもが自分の気持ちを素直に表すことを “控えるべきこと” のように、感じさせてしまうことです。

この点は先述もしましたが、聡太少年の母・裕子さんは常に、本人と “一対一の関係性” の中で話しをしていて、“他者の目” を気にするような言葉は発していませんでした。

だからこそ!

「聡太少年は、たとえ大勢の人が見ているような状況であったとしても、“とても素直に” 自分の気持ちを表し続けることが、できたのだ!」

幼い日に、自らの気持ち・感情を押し殺すという術を、覚えさせられてしまった自分としては、そう感じさせられるのです。

藤井聡太さんに負けず嫌いな面があった・あるのは、確かだと思います。

ですが、それは何も特別なものではなく、元気のいいやんちゃなタイプの子どもであれば、誰もが抱いているようなレベルであった可能性が高く、今現在の彼の強さの「原動力」となっているような類の要素ではないと思うのですが、いかがでしょうか。

この「負けず嫌い」な点については、聡太さん “本人が公言” している動画もありますが、発言内容を丁寧に聞けば、負けず嫌いな点が現在の突出した強さ・能力に大きな影響を与えているわけでは「ない」ことが、逆に示されていると感じられます。

以下、動画 サントリー緑茶 伊右衛門 『新成人茶会 藤井聡太』篇 よりの抜粋・引用です。
(※同動画での質問者は、芦田愛菜さんです)

(8分50秒前後より)
Q14.子供の頃から変わらないところは?

負けず嫌いなところは、なんか変わらないのかなと思います。(中略)
今ではある程度コントロールできるようになってきたんですけど何かその、こう負けず嫌いっていうその本質のところは、あんまり昔から変わっていないのかなという気がします。

続いて、全編で14分26秒の同動画からの別の質問に対する返答内容です。

(12分50秒前後より)
Q19.将棋に必要なことは何だと思いますか?

負けをやっぱり気にしすぎないってことは凄く、そうですね、大事なのかなと思います。うーん、そうですねその上で、やっぱり楽しむことというか、自分のその20枚の駒をどう使っていこうかっていう、勝ち負けよりも、そういう何か考えを持って将棋に臨むというのが、いいことなのかなというふうに思います。

どうでしょうか。

「負けず嫌い」という点は、元々持っていたものでいまも変わらない点でもあると言いつつも、現在は《コントロールすべき対象》という考え(境地?)に至っていることがうかがえます。

ちなみに、同動画の『新成人茶会 芦田愛菜』篇では、愛菜さんが自身のことを「負けず嫌い」と、とてもにこやかな表情で話しています。聡太さん同様に(笑)。

一般的に、「負けず嫌い」という言葉は、勝負で相手に負けることが「嫌だ!」「嫌い!」という気持ちを指すのだと思います。

それに対して、自分自身に負けるのが「嫌!」という場合は、「克己心こっきしん」という言葉を用いるのが適切です。

その意味で、藤井聡太さんは幼少の頃より、「相手に負けるのが嫌い=負けず嫌い」なのではなく、「自分自身に負けるのが嫌い=克己心」が、とても強い子どもだったようです。

以下、書籍『天才 藤井聡太』からの抜粋・引用です。

(P20より)
前述の東海研修会の竹内努・棋道師範は「藤井の涙」について意外な見方を示す。
「藤井君、あれは本当は泣いてなかったんじゃないかって思うんです」
どういう事だろうか。
竹内は確かに藤井が号泣する様子を何度も見てきた。だが、そこにはある傾向が見えたと話す。
「自分より強い相手に完膚なきまでに負かされた時は、多分泣いてない。だけど自分のイージーミスで、本来は負けるはずでない相手に負けたときに泣くんです。
一度、角が成れないマス目で成って(駒を裏返して)しまった事があって、これはその瞬間に反則負けになるんです。防げるミスを防げなかった。こういう時、本当に号泣します。わあわあ泣く」
だが、竹内は一度、藤井を引きはがした後の盤に、一滴も涙が零れていない事に気づいた。「嘘泣き」ではない。そんな芝居がかったことをする子どもではないし、そもそもそんな事をする必要もない。
竹内は「もしかしたら」と気づいた。あれは泣いているのではなく、悔しさのあまり咆哮しているのではないか、と。身の内にとどめておけないくらいの悔しさが、腹の底から湧きあがって口からほとばしっているのだ‥‥。
竹内はここまで強烈な負けん気を露わにした子どもは藤井以前もその後も、見た事はないと話す。

幼き日の聡太さんに当てはまるのは(いまもそうですが)、「負けず嫌い」という言葉より「克己心」という言葉であることが、よく伝わってくると思います。

ここでさらに「注目」したいのは、以下の行です。

【キーセンテンス】
竹内はここまで強烈な負けん気を露わにした子どもは藤井以前もその後も、見た事はないと話す。

ここで思い出していただきたいのが、先に『藤井聡太一家の幼児教育が教えてくれる1番大切なこと』の章でふれた点です。

聡太少年は、ご両親・ご家族にいつも温かく「見守られてきた」ことで、周囲の目・大人の目をまったく気にすることなく、自分の気持ちを「素直に表すことができるように育った」という点です。

同調圧力は大人が幼児に教え込む?

逆に言えば、ほとんどの子どもが幼少期のうちから、親や周囲の大人たちによって、「同調圧力(=周りの目を過度に気にする意識)」というものを教え込まれてしまっている‥‥ ということなのだと、言えるのではないでしょうか。

大人も子どももともに、無自覚・無意識なまま‥‥。
 
さて、幼少の頃、同調圧力的視点を植え付けられることなく、スクスク&ノビノビと育った藤井聡太さんは、“いま”、どのような大人となっているでしょうか。

彼が、聡明でとても品性のある素敵な青年へと成長したことに、異を唱える人はいないと思います。

その事実は私たちに、次のことを教えてくれているのだと思います。

幼少期の子どもに、周りの目を気にすること(=同調圧力的思考)を教える必要など「ない」、ということを。

ちなみに、聡太少年は、小学3年生頃から自然と(=誰に教わることもなく)、徐々に人前で泣いている様子をみせることはなくなっていったそうです。

なお、幼い日(小学2年生時)の聡太少年が、紋付き袴姿で “泣きじゃくっている” 映像が有名なあのシーンが撮影された場面については、以下のような逸話があります。

以下、(再度)書籍『藤井聡太 天才はいかに生まれたか』からの抜粋・引用です。

(P51より)
「人生で一番緊張したときはいつですか?」
『将棋年間』平成二九年版のアンケートに、藤井はこう答えている。
「小二の時のJT杯東海大会決勝」

普通の子どもであれば、周りに大勢の大人たちがいる「人生で一番緊張したとき・場面」で、あれほど自然に自分の気持ちを開放することは、できないのではないでしょうか。

あのとても印象的な聡太少年の姿は、次のような問いを投げかけてくれている気がします。

大人は、子どもの本当の姿を、ちゃんと見ているのだろうか?

と。

「藤井聡太=負けず嫌い」や「負けず嫌いな性格が才能・能力を伸ばす」といった見方というのは、もしかしたら “ステレオタイプ的な考え方” なのではないでしょうか。

ここでもう一度、先ほどの【キーセンテンス】に立ち返ってみます。

【キーセンテンス】
竹内はここまで強烈な負けん気を露わにした子どもは藤井以前もその後も、見た事はないと話す。

この竹内さんの言葉は、次のように “置き換える” こともできるかと思います。

「ここまで、“素直に自分の気持ちを表す・開放する”子どもは藤井以前もその後も、見た事はない」と。

仮に、この置き換えが “事実” として成立しているのであれば‥‥

そのことは、「大半の家庭が、藤井家のようなスタンスでの子育てをしていない or 育児ができていない」ことを示唆している、そう捉えられるのかもしれません。

たいていの子どもは、負けず嫌いである(余程の大人しい子を除けば)。

だが、大多数の子どもたちが、どこかしらのタイミングで、親や周囲の大人たちにより、自分の感情を素直に表すことを “控えるよう” 教えられてしまう。

よりシビアな言い方をすれば、それは、「周囲の目(=空気)を気にしなさい」という無意識的な圧力であり、子どもたちはそれを、無自覚なまま「そういうものなんだ」と受け入れてしまう。

そうやって、私たち大人は知らず知らずのうちに、子どもたちに「同調圧力」というものを植え付けてしまっているのではないでしょうか?

そして、世の中・社会には、矯正された子どもたち及び、彼ら彼女らがそのまま大きくなった大人たちが溢れている、という状況になっているのではないでしょうか?

聡太少年も、もし、藤井家の幼児教育のモットーが別のものであったとしたら(例えば家父長的な色彩が濃いものであったら)、内弁慶で人前では感情をあらわにしない子どもになっていた可能性も、かなり高いのではないかと。

藤井聡太さんに限らず、近年、「突出した若き才能」が世に出てくる頻度が、一昔二昔前とは比較にならないぐらい上がってきています。

もう一つの棋界の囲碁界でも先日(2023年2月6日)、仲邑菫なかむらすみれさんが、初タイトル(女流棋聖)を男女合わせての “史上最年少記録” となる「13歳11ヵ月」で獲得したりなど。

それらは、負けず嫌いな子の増加を意味するのでしょうか‥‥
いや、おそらくそうではないでしょう。

そうではなく、少し前から、『藤井家のようなモットーを持つ家庭が徐々に増えてきているから』、と考えるほうが自然です。

「旧世代」の “大人たちの圧にも屈しなかったほどの「負けず嫌い」度” という特性・才能よりも、『新世代』の “ノビノビ&ワクワクと好きなことを『真っすぐに楽しむ』” という特性・感性のほうが、伸びしろが《大!》ということなのではないでしょうか。

臥薪嘗胆がしんしょうたん」的な考えを、幼少期の子どもに期待するのに無理があることは、誰もが感じるところでしょう。

にもかかわらず、“スポ根的な根性主義” が世に広がり‥‥ いまだに根強く残っているのも、大人たち(特に男性側)が「子どもたちの視点」を忘れていた、もしくはおろそかにしてきた時代が、長く続いたからなのだと思います。

藤井家の幼児教育のモットーの一つ「子どもには子どもの時間がある。大人はそこに立ち入ってはいけない」は、次のように換言することもできると思います。

子どもには子どもの視点がある。大人はそれを忘れてはいけない

もっといえば‥‥
子どもには子どもの世界観がある。大人はそれをむやみに改変してはいけない

であれば、「藤井聡太=負けず嫌い」という見方には、幼児教育がうまくいかないケースの典型的なパターンが、潜んでいる可能性があるようにも思えます。

この章の最後に、将棋界のレジェンドである羽生善治さんの言葉を、紹介しておきます。

以下の画像は、羽生さんへのインタビュー内容をまとめた書籍『超越の棋士 羽生善治との対話』の帯部分です。

ご覧のとおりで、羽生さんは明言しています。

「将棋に闘争心は要らない、と思っています」と。

羽生さんも藤井さんも、幼い頃から「負けず嫌い」だったとは思います(特に、若かりし頃の羽生さんがそうだったかと)。

ですが、その点は二人の強さの根源ではありません。

なにせ、羽生さん本人が、「闘争心は要らない」と言っているのですから。

二人の「強さ」の根源にあり、他の棋士の方たちより《より強い》と思われる共通項は、次の点なのではないでしょうか。

将棋に対する『尽きぬ好奇心』、だと。

藤井聡太の才能=幼児教育が脳の発達に与える影響と理想の効果

藤井聡太さんの飛び抜けた才能が広く世の中に知られたのは、「史上最年少」のプロ棋士としてデビューした、中学2年生の時でした。

その後、「29連勝」と、デビュー以来無敗のままで将棋界の連勝記録を更新し、“藤井聡太の名を知らぬ者はない” というほどのブームを巻き起こし、「全タイトル8冠制覇!?」も現実味を帯びてきている現在に至る。

というところが、多くの人が知る流れ・情報だと思います。

ですが‥‥ 将棋界・棋界の関係者においては、彼の名前はもっと早い時点から知れ渡っていました。

将棋界に、「藤井聡太」の名が広く知れ渡るきっかけとなったのは、彼が小学6年生・弱冠12歳の時に、プロ棋士も多数参加する「詰将棋解答選手権」において、“史上最年少” での優勝を果たした時のことでした。

14歳2ヵ月での「史上最年少プロ棋士デビュー」は、“62年ぶり!” となる歴史的な快挙なのですが、実は、小学生での「詰将棋解答選手権優勝」は、将棋界関係者にとってはさらに衝撃的な出来事であったようで、ウィキペディアには次のような記載があります。

以下、Webサイト『藤井聡太 – Wikipedia』よりの抜粋・引用になります。

(詰将棋解答選手権チャンピオン戦)5回目の出場となった2015年の第12回大会(小学6年生、12歳)では、全問正解で史上最年少優勝を記録した。プロのトップ棋士も参加するこの大会で、小学生が全問正解で優勝することは全くの想定外だった。マスコミによっては、この優勝を「藤井が初めて将棋界に大きなインパクトを与えた出来事」とする場合もある。
森下卓、深浦康市、津江章二(共同通信社の観戦記者)は、この報に接した時の衝撃を次のように語っている。
6年生で詰将棋選手権優勝は……とても現実とは思えないですね。(森下)
僕はその話を聞いた時、心臓が止まるかと思いましたから。(津江)
それぐらいのことですよね。(深浦)

ご覧のとおりで、この『詰将棋解答選手権チャンピオン戦』に “小学6年生” が優勝するということは、本当~にものスゴイ!!ことだったようです。

12歳と14歳というのは、年齢差だけでいえば “2歳差” です。

“2歳差” という部分のみに着目すれば、さほど大きな差ではないと、言えなくもないです。

ですが、その年代を通過してきた経験のある私たち大人は、この年代の“2歳差” の意味をよく知っています。

より具体的に言えば、「小学生と中学生」との間における、当人の意識の差を。

“小学生から中学生になる” という過程は、子どもというか一人の人間にとって、恐らく一生の中でも最大と言って過言ではないほどの “精神的な成長” を実感する時期だと思います(たとえそれが幻想だとして(笑))。

逆に言えば、その前段階である小学生のうちに「偉業を成す」ということは、本人の意思云々うんぬんより、周囲の大人たち・環境により培われた能力・才能がもたらした結果と考えてよいのではないでしょうか。

もちろん、当人の努力を軽視するわけではありません。

とはいえ、この年齢での偉業には、努力という言葉より「好きこそ物の上手なれ」の格言こそが似合います。

小6の聡太少年が成したこの快挙は、次の三つの要素の《奇跡的な融合》だったのではないかと、推察します。

  • 将棋・詰将棋が “好きでたまらない” 本人の気持ち
  • その気持ちを大切に“見守り続けてきた” ご家族の姿勢
  • 幼児教育が子どもの脳の発達に与える理想的な影響・効果

藤井聡太さんご本人とご家族の方々、そして聡太さんが将棋を学んできた過程で彼に影響を与えたきた周囲の方々により織りなされてきた幼児教育のプロセス・過程は、私たち全員に、「適切・的確な幼児教育が子どもの脳の発達にもたらす理想的な可能性の姿」を、【将棋界における藤井聡太の歩み】という具体的な事例・目に見える形として、指し示してくれます。

その【歩み】は、以下の二つの文章のようにまとめられます。

すべてが、適切なタイミングで出会うと、これほどの能力・才能を、大人たちは子どもに “与える・授ける” ことができる

その能力と才能を有した子どもが、そのまま真っすぐに成長していくと、どれほどの存在になれるのか!?
人間の持つ「可能性」を、現在進行形で拓きながら、示してくれている

では、そのような理想的な幼児教育が、どのようなプロセスでなされたのかを、より具体的にみてみましょう。

なお、具体的な内容・方法は、藤井聡太さんに関する多くの書籍にも散見されますが、それらが “織りなす関係性やそのプロセス” についての考察は、当ブログ独自の内容となります。

また、それらがもたらした、藤井聡太さんの「超天才」というべき能力(脳力)については、こちらの関連記事の考察・推察を参照していただけると嬉しいです

関連記事

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藤井家の教育が聡太少年の論理的思考力を育んだ具体的方法

将棋というゲームは、他の多くのゲームとは異なり「運」というものが介在しない、極めて論理的なゲームです。

したがって、子どもが「将棋が強くなるプロセス」とは、子どもが「論理的思考力を獲得するプロセス」とイコールになります。

なので、とてもありがたい!ことに、聡太さん本人とご家族および周囲の関係者・環境が“織りなしてきたプロセスを知る・理解する”ということは、自分たちの子どもや孫に、「論理的思考力を授ける」ことのできる “ プラチナチケット” を入手できるようなことなのだと、考えられるのです。

では、その具体的なプロセスとは、どのようなものであったか。

具体的な教育法や教具・玩具の類いや習い事との出会いは、以下のような内容・時系列順でした。

※リスト右側の の3つのマークは、「温かく見守る」と「視覚の制限&抑制」を意味しています。

  1. 藤井家の基本方針(0歳~3歳)
  2. モンテッソーリ教育(3歳~)
  3. 知育玩具キュボロ(4歳)
  4. 迷路創作(5歳)
  5. 習い事=将棋教室(5歳~)

 
まずは、大前提として(1)の幼児教育に対する藤井家の基本方針 見守る」という点が挙げられます。

そのスタンスを端的に表現している、藤井家の幼児教育のモットーの一つは、以下でした。

子どもには子どもの時間がある。大人はそこに立ち入ってはいけない

子どもの脳の発育・発達にとって、0歳~3歳の期間というのは「最重要期間」と言える時期です。

子どもが、その重要な期間を過ごしている間、親が「大人はそこに立ち入ってはいけない」とのスタンスで “過剰な干渉=過干渉” をせず(過保護も同様)、子どもの好きなようにさせてあげることができていれば、子どもの素直で自由な「まっさらな感性」は、“スクスク&ノビノビ” と育っていくでしょう。

この時期に一番大切なこととは、「夢中になって遊ぶ」という経験。

何かに邪魔をされることなく「夢中になる」、気が済むまで存分に「熱中する」という経験・体験が、「集中力」の基盤を形成することにつながります。
 
(2) モンテッソーリ教育も、「集中力」の養成に大きな役割を果たしたと考えられます。

ご存じの方も多いと思いますが、モンテッソーリ教育の保育園・幼稚園では、一人ひとりの園児の「自主性」を重んじていて、その日に何をして遊ぶかも、児童一人ひとりが “自分で決める” スタイルをとっています(一般的な保育園・幼稚園が「団体での行動」を前提としているのに対し)。

好きなことに好きなだけ熱中する。

モンテッソーリ幼稚園での聡太少年は、「ハートバック作り」遊びに夢中になっていたそうです。

※「ハートバック作り」のイメージは、こちらの動画でご覧いただけます。

ここでのポイントは、ハートバックは紙を “織り込んで” 作っていく、という点です。

“織り込む” という動作は、目で見えない&見えていない部分=「 視覚が一時的に制限される部分」を「頭の中でイメージ」しながら、進めていくという作業です。

その作業は、大人にとっては容易でも、3~5歳の子どもにとっては根気のいる難易度の高い作業だと思われます。

聡太少年の「集中力」が、モンテッソーリ教育によりさらに強化されたことは、間違いないところです。
 
(1)藤井家の基本方針と(2)モンテッソーリ教育により、藤井聡太さんの驚異的な「集中力」の基盤が整えられた。

そして、(3)知育玩具キュボロと(4)迷路創作により、「論理的思考力」が鍛えられます。

(3)知育玩具キュボロは、聡太少年がモンテッソーリ教育を施す幼稚園『雪の聖母幼稚園』に入園した年のクリスマスプレゼントとして贈られたスイス製の木製玩具。

キュボロは、木製の立体キューブを組み合わせてビー玉が通るルートを作り上げる玩具です。

キューブには穴が空いているパーツがあり(穴開きパーツが大半です)、それを活用すると “トンネル” を作ることができます。

この目では見えない=「 視覚を制限する」 “トンネル” 部分を 「頭の中でイメージし想像して作る」 という行為が、4歳の聡太少年の「論理的思考力」を鍛えるのに、大いに役に立ったことと思われます。

「視覚の部分的な制限」 ⇒ 「脳内イメージで補足」 ⇒ 「論理的思考力の発達」

との一連の流れが、幼い聡太少年の「脳内」で起こり、「思考回路の強化・鍛錬」につながっていったと推察されます。

なお、トンネル部分の実際のイメージは、こちらの(一社)日本知育玩具協会による「2分10秒程のキュボロの動画」をご覧いただくとわかりやすいです。
 

(4)迷路創作は、5歳の聡太少年が将棋に初めてふれた頃に同時に、夢中になって取り組んでいた “遊び” の1つだそうです。

新聞のチラシの裏などに、 “手書き” で自作の迷路を、夢中になって描いていたそうです。

“手書き” というアナログな行為もまた、紙の手触りや自分の筆圧などの “感触” を肌で実感し、そのことが脳の神経回路によい刺激をもたらし、「論理的思考力」につながる回路の強化に “相乗効果” をもたらしたのではないでしょうか。

迷路創作も、キュボロ同様に、一見では捉えられない=「 視覚に依存することを制限する」 複雑なルートを「頭の中でイメージしながら」作り上げていく遊び。

こうした数々の「遊び」をとおして、聡太少年の「集中力」と「論理的思考力」は、鍛えられていったようでした。

「ハートバック作り」 ⇒「木製積み木玩具・キュボロ」 ⇒「迷路創作」

既にお気づきの方も多いかと思いますが、これらの「遊び」はすべて、“アナログな遊び” であり、どれもが自ら手を動かす「能動的な遊び」であることが重要なポイントです。

「能動的な遊び」とはすなわち、「自分の頭で考える」遊び。

自分の頭で考えることを、くり返しくり返し夢中になって取り組んだことの積み重ねにより、「論理的な思考力」が鍛えられた。

さらに!

視覚を制限する・視覚に依存し過ぎない」ことによって、「頭の中(=脳内)でイメージを想像する・作り上げる」という思考回路を強化する類いの遊びに、「軽負荷 ⇒ 中負荷 ⇒ 重負荷 」との適切な順番で出会ってきていた、という点も見逃せません。

その一連の流れが見事に構築されていた点が、注目すべきところです。

とはいえ、あたかも “設計されていたかのように的確” と感じられてしまうこの順番は、予め意図されていたわけではありません。

(2)のモンテッソーリ教育の幼稚園『雪の聖母幼稚園』に関しては、母親の裕子さんはモンテッソーリ教育を施す幼稚園だとは認識していなかったそうです。

実は‥‥ 聡太さんを入れてみたら「モンテッソーリ教育を受けていた」ということだったそうです(笑)。

(3)の『キュボロ』も、祖母の育子さんが聡太さん向けに「何かいい知育玩具はないかしら?」的に物色していたところ、近場の玩具専門店でおすすめされたそうで、予め「キュボロを育脳に!」と考えていたわけではなかったのでした。

(4)の迷路創作については、どんな子でも一度はやってみたことがあるのではないかと思いますが、いかがでしょうか。

したがって、こちらもご家族が何かしらの意図を持って薦めたということは、特になかったのではないでしょうか。

一方、聡太少年が迷路創作に「熱中した」ということに関しては、それが感覚的に、(2)でのハートバック作りや(3)「キュボロ」に “ハマッた” 経験の延長線上にあったのではないでしょうか。

特に、「キュボロ」と迷路創作の間には、似たプロセスがあると思いますので。

そのようなわけで、ご家族としても、「ハートバック作り」 ⇒「木製積み木玩具・キュボロ」 ⇒「迷路創作」と進んでいったプロセスを、予め想定していたわけではないのでした。

とはいえ、聡太さんと「キュボロ」との出会いは、祖母の育子さんの孫に対する「想い」によって導かれたものなので、それは “偶然ではなく必然であった” と言っても過言ではないかと思われます。

(2)のモンテッソーリ教育についても、元々は祖母の育子さんが、ご自身の娘さんたちのために探してきた幼稚園だったそうです。

育子さんには、裕子さんを含め3人の娘さんがいるそうですが、“たまたま” 末娘の裕子さんの時だけ幼稚園が改修工事をしていて、その関係で裕子さんだけが別の園に通ったそうです。

そうした偶然があって、裕子さんは『雪の聖母幼稚園』がモンテッソーリ教育を行っている園だとは知ることがなかったそうです。

しかしながら彼女は、同園に対する “憧れ” を抱き続けていて、その “憧れ” があったゆえ、聡太さんを同園に通わせたそうです。

このように、「藤井家の幼児教育」というのは、子どもを尊重し『見守る』姿勢を重視したご両親のスタンスと、子どもの習い事に熱心で元「教育ママ」的であった(周囲からそう呼ばれることがあったそうです)祖母の「想い・熱意」とが、丁度よい塩梅あんばいの『絶妙のバランス』で成り立っていたところに、ポイントあるようです。

藤井家は、聡太さん一家の家の隣に、おじいちゃん・おばあちゃんのお家がある形での「二世帯住宅」です。

その状況が、『絶妙のバランス』を生むことに大いに役立ったことは、間違いないところだとは思います。

とはいえ! 聡太少年を育んだ環境がどのようなものであったかを「知恵」として学べた私たちは、たとえ自分たちが同じような家族構成・状況でなくとも、学び得た智恵をきちんと意識して実践を続けていけば、『適切なバランス』を作り出していくことは十分に可能だと思います。

子どもを「主体・主役」としつつ、親・家族は適切なサポート・環境作りを行う(黒子的に)

その『バランス』がきちんと取れていれば、「子どもの可能性を大きく拓く」ことができるかと思います。

さて、藤井家の場合は、そうしたベースがあったうえで(いよいよ)、(5)の習い事「将棋教室」との出会いが訪れた、というわけでした。

ちなみに、聡太少年の才能を大きく飛躍させることになった『ふみもと子ども将棋教室』も実は、祖母の育子さんが、知人に相談をしてその情報を探し出してきたのだそうです。

自分たち(祖父母)よりもう遥かに強くなってしまった孫が、大好きな将棋を「存分に楽しめる場所はないかしら?」との、「想い」=適切なサポート心を持って。

符号読みやAI超えを可能とした特別なプロセス

プロ棋士・藤井聡太さんはなぜ、あれほどまでに強く、「超天才」と言えるほどの才能と能力を持っているのでしょうか?

いま見てきたように、彼が歩んできた=授かってきた「幼児教育のプロセス」は確かに、将棋に必要な「集中力」と「論理的思考力」を育む&鍛えるのにとても合致した見事な順序と関連性を有していました。

でも、それだけだったなら、一流のトップ棋士の一角を占めることはできたとしても、これまでの将棋界の歴史のほぼすべてを塗り替え続けるほどの「超一流」の棋力を、身につけるレベルまでには至らなかったのではないでしょうか。

聡太少年が、詰将棋界の超天才児を経て、超一流棋士・藤井聡太として覚醒するために必要だった最後のピースは、(5)の習い事の「将棋教室」である『ふみもと子供将棋教室』で出会った《目隠し詰将棋》にある。

この《目隠し詰将棋》が、藤井聡太さんの天才性のカギを握る「超脳力」とも呼ぶべき「符号読み」の能力(脳力)にどう結びついたかの考察は、関連記事『藤井聡太棋士の天才性と強さの理由を読み解く』を参照いただくとして、当記事では、(1)~(5)の流れ・プロセスに、その特別な才能・能力を開花させた源泉があったことを押さえておきたいと思います。

超天才棋士・藤井聡太さんの「核」を成すもの。

それは、彼が幼少期に受けた「幼児教育」です。

  1. 藤井家の基本方針(0歳~3歳)
  2. モンテッソーリ教育(3歳~)
  3. 知育玩具キュボロ(4歳)
  4. 迷路創作(5歳)
  5. 習い事=将棋教室(5歳~)

(1)~(2)の流れで、「集中力」を養い磨き。

(3)~(5)の流れで、「論理的思考力」と「頭の中(=脳内)でイメージを描く力」を鍛えていった。

その一連の流れ・プロセスがあったうえで、《目隠し詰将棋》という特殊な鍛錬法に出会ったため、彼は「特別な能力(脳力)」を身につけることができた、と推察します。

詳しくは、上述の関連記事に譲りますが、ここでは「彼の特別な能力(脳力)」について簡単にふれておきます。

当ブログ独自の仮説ではありますが、彼・藤井聡太さんの「特別な能力(脳力)」の鍵を握るキーワードは、『瞑目沈思めいもくちんし』です。

瞑目沈思めいもくちんし」とは、目をつむって深く考えること。

ここでいう「目を瞑る」とは、単に “雑念を払う” というようなことではなく、視覚の活動そのものを抑えることにより、「思考する」という脳活動に、脳の力=脳力を集中させるということを意味します。

言い換えれば、目に映るもの(目に入ってしまうもの)を排除することにより、「頭の中のイメージ」を極限まで活性化させて思考する、というイメージです。

そして、そのような「特別な能力(脳力)」を持ち得ることができたので、藤井聡太棋士は「符号読み」という他の棋士とは異なる別次元の思考法を獲得し(彼の他に同様の思考法もできるのは羽生九段のみのようです)、それができるがゆえ、「AI超え」と呼ばれる超人的な能力をも獲得し得たのだと推察します。

これまでみてきたように、聡太さんは幼少期からこのマーク ⇒「 =視覚の制限&抑制」を意味するマークを付けることができる「遊び」に沢山ふれてきていました。

そのようなプロセスがあった上で、《目隠し詰将棋》との特殊な鍛錬法に出会ったため、彼はここで述べた、「瞑目沈思めいもくちんし」という「特別な能力(脳力)」を、唯一人、身につけることができたのではないでしょうか。

ただ、「わが子にも聡太さんのようなプロ棋士に育って欲しい」という特殊な(?)ケースを除けば、あるいは、将棋とは関係なくても特別な能力(脳力)=異次元の思考能力を「わが子にも獲得して欲しい」というケースを除けば、《目隠し詰将棋》に関する部分は、特に必要のない部分であるかもしれません。

学ぶべき「幼児教育の大切なポイント」

私たちが、藤井聡太さん一家から学ぶべき「幼児教育の大切なポイント」は、主に次の点なのだと考えます。

(1)~(2)の流れで、「集中力」を養い磨き。
(3)~(5)の流れで、「論理的思考力」を鍛える。

集中力」については、藤井聡太さん本人が、先でも紹介した “緑茶CMの関連動画” にて、次のような発言をしています。

以下、動画 サントリー緑茶 伊右衛門 『新成人茶会 藤井聡太』篇 よりの抜粋・引用です。
(※同じく質問者は、芦田愛菜さんです)

(10分20秒前後より)
Q16.集中力を高めるにはどうすればいいですか?

はいうーん。そうですね、何か結構棋士は集中力が高いというイメージを持たれることも多いんですけど、ただ、将棋以外のことをやっても集中力が高いかというと、そういうわけではなくて、やはり何か将棋だから集中して考えられるところが大きいと思うので、なんだろう、その対象のことを好きになったり、あるいは何かそれを楽しめるよう何か工夫することっていうのが、結果的にそれに集中して取り組むということにも何かつながるのかなというふうに思います。
他ではぜんぜんだったりするんですけど(笑)

やはり、ポイントは『楽しむこと』!

成長してからはもちろん、子どものうちに“夢中になったり”、“熱中したり” できることというのは、間違いなく「大好き」で「楽しい」こと。

子どもの場合、それはもちろん「遊び」です。

だからこそ!

親・家族や、子どもが保育園・幼稚園などでお世話になる大人の方たちは、子どもが「遊び」に熱中して夢中になっている時は、“その時間を大切にして”、できるだけ妨げることがないようにしてあげるのが “ベスト” かと。

なお、(2)のモンテッソーリ教育については、必ずしもモンテッソーリ教育を実践している保育園・幼稚園に通わせる必要性はありません。

子どもを、モンテッソーリ教育を実践している園に通わせられれば理想的ですが、実際にはそのような園は限られているのが現状ですので、実現はなかなかに難しいところです。

ですが!

モンテッソーリ教育に関しては、自宅で実践できるものもたくさんありますので、そうしたものを調べて実行すれば、ちゃんと効果は得られると思います。

同じく、(3)~(5)の流れも、必ずしも「まったく同じ遊び」を与える必要性は高くはないと思います(習い事の(5)は特に)。

与えることができ、自分の子どもがそれを気に入ってくれればベストですが、子どもの思考力を鍛えるのに「適した遊び」であれば、他の遊び・知育玩具でもよいのではないかと。

逆の観点からすれば、テレビやデジタルゲームのような「受動的な遊び」は、子どもが小さいうちはできるだけ避けたほうがよい、と言えるかと思います。

聡太少年もやはり! 幼少の頃から、テレビやゲームにはあまりふれていなかったそうです。

子どもが「自己の才能・能力」を自分らしくノビノビと発揮できること。
才能・能力を存分に発揮できる “大好きなこと” を「仕事」にできれば、なおよし!

そうした「想い」を、子ども(&孫)に届けたい。

「想い」の実現に向けては、藤井聡太さん一家から学べる点、真似るべき点は、たくさんあるのではないでしょうか。

おわりに-遊びこそ理想の幼児教育

当記事では、藤井聡太さんという「特別な才能」がどのように育まれたのかを、藤井聡太一家(=ご両親と祖父母のご家族)が行っていた「幼児教育の具体例」をいくつか取り上げ、その大切なポイントや理想的な効果などを検証してきました。

超天才棋士・藤井聡太さんの「核」を成す「幼児教育」の具体的な内容は、以下でした。

  1. 藤井家の基本方針(0歳~3歳)
  2. モンテッソーリ教育(3歳~)
  3. 知育玩具キュボロ(4歳)
  4. 迷路創作(5歳)
  5. 習い事=将棋教室(5歳~)

そのうちの(3)~(5)に関しては(特に(5))、かなり高いところに「理想」を置いたある意味 “特別なケース” 以外は、まるっきり同じことをする必要はないかと、結論づけました。

もちろん! まるっきり同じことではなくても、それに類した内容を授けることができれば、それに越したことはありませんが。
(※この点については、具体的な提案を後述にて)

他方、(1)の『藤井家の基本方針』である「見守る」,「子どもには子どもの時間がある。大人はそこに立ち入ってはいけない」の2点に関しては、一番「大切なポイント」として実践をされることを、ぜひおすすめします

この点は、わが家の場合は当ブログのURLでもある「kodomo-1st(=子どもファースト)」とのキーワードに託して、同じように実践をしてきた点でもあります
(※その成果の具体的な内容も後述にて)

さて、当記事の「まとめ」にあたる当章で、確認をしておきたい「大切な点」は、次の点です。

藤井聡太さんのご家族が彼に授けた理想的な「幼児教育」、それはすべて、「遊び」の延長線上にあった点です。

モンテッソーリ教育の幼稚園で行った「ハートバック作り」も、聡太少年にはとっては育脳トレーニングなどではなく(結果的にそうはなりましたが)、「楽しい遊び」の一つでした。

もちろん、「キュボロ」も「迷路創作」も「楽しい遊び」です。

そして、習い事となった「将棋」こそが、聡太少年を、それこそとりこにした「1番の遊び!!」でした。

その意味で、藤井聡太一家から学ぶ理想の幼児教育とは結局、以下の言葉に要約されるのかと思います。

遊びこそ
理想の幼児教育

では最後に、聡太さんの「特別な能力(脳力)」である『瞑目沈思めいもくちんし』を育んだ、「頭の中(=脳内)でイメージを描く力」を養う、よりシンプルな方法を2つ提案しておきます。

一つは定番中の定番の「読み聞かせ(読書)」。

もう一つは、こちらも定番の一つでもある「そろばん」です。

読み聞かせ(読書)は育脳の万能薬

どの家庭でも手軽にできる「幼児教育・育脳法の定番中の定番=鉄板法」といえば、『読み聞かせ(読書)』。

“子どもの好奇心を刺激する” のに、「本・絵本」ほど最適なものがないのは、誰もが納得するところかと思います。

「本・絵本」はそれこそ多種多様な内容・形態があるので、どんな子でも気に入るものが必ずあるので。

しかし、ここで注目したい点は、そうした鉄板的な部分以外の点にあります。

そう、ここで注目したいのは、「頭の中(=脳内)でイメージを描く力」を養う点です。

その点は、デジタルコンテンツと比較すると、より明確になるかと思います。

デジタルコンテンツ、例えば「動画・アニメーション」は、子どもの興味を強く引きつけます。

ただし、「動画・アニメーション」の場合はそれこそ「視覚」が活性化され、目でその動きを追うことに脳内は大忙しとなり、結局はすべてが「受け身」のままで終わると言ってしまって過言ではないかと思います。

それでは、子どもが自分自身で自分の脳内にイメージを描き出すための時間を取る余地・余裕はありません。

対して、『絵本・本の読み聞かせ(読書)』であれば、親や家族が、子どもの様子を伺いながらペースを調整することができます。

子どもは絵を観て、ママやパパなどの家族が読み上げる声を聞いて、たとえその意味がまだわからない乳幼児の段階だとしても、「たったいま目の前で展開されていることのその「意味」を、懸命に理解しよう」としているはずです。

ある意味、「視覚的な刺激に反応しているだけ」ともいえる「動画」との決定的な違いは、その点にあります。

喩えるなら、「動画」は特急列車から見る車窓であるのに対し、『絵本・本の読み聞かせ(読書)』は鈍行列車から観る車窓です。

超特急の車窓から景色は、次から次へと “ビュ~ン” と飛んで行き、スピード感と刺激には溢れていますが、その一つひとつの景観について何かを想う間はありません。

鈍行列車の車窓の景色からはその反対に、スピード感や刺激は感じられないものの、目に映る景観について何かしらを感じたり想ったりする “ゆとり” が十分にあります。

また、「音声」と「生身の声」の違いも大きな差です。

超特急の列車内にも「音声」が流れることはあるでしょうが、それはあくまでも電気信号化されたもの= 「音声」です。

対して、鈍行列車内で誰かしらが語りかける「声」は、人間が発した「生身の声」です。
乳児の脳が、「生身の声」を一生懸命聞き取ろうとするのに対し、電化された「音声」に対しては大きな反応は示さないことには、科学的にも多くの実証実験があるエビデンスの高い事実です。

「超特急列車の車窓」と「鈍行列車の車窓」。

「自分の頭で考える」能力の土台作りという観点において、そのどちらが、乳幼児の脳に良い効力をもたらすかは言わずもがなです。

読み聞かせ(読書)』とは、子どもの成長過程に合わせて0歳から10歳代までになっても、子どもが勘がいいタイプでもマイペースなタイプであっても、同じ子でも読む本の内容ごとででも、いかなるケースにおいても「適切なペース」を調整することができる「すこぶる高い万能性」を持つ育脳法です。

おまけに、子どもがまだ小さいうちは、膝の上に乗せて “スキンシップ” もはかれるしと、一石二鳥どころか三鳥も四鳥も「メリット」がついてくる方法です。

書籍『考えて、考えて、考える(P103より)』によりますと、藤井家に関しては、「おおきなポケット」(福音館書店、現在休刊)という絵本雑誌を定期購読して読んでいたそうです。

わが家の場合も、子どもが0歳のうちから「読み聞かせ」を始めました。

そして、ちゃんと目でページを追えるようになってからは、自分1人で問題なく本が読めるようになるまで、それこそ毎日毎日欠かさず数冊の「読み聞かせ」を続けてきました。
幼稚園入園前には「絵本雑誌の定期購読」を、入園前後からは進研ゼミ【こどもちゃれんじ】の紙冊子(本タイプ)にも取り組んでいました。

そうした甲斐もあり、ウチの子は「大の本好き!読書好き!」に育ってくれました。

この恩恵は予想していた以上に大きく、塾にもいかず&家庭内塾もなしで、本人が自分の好きなペースで通信教育教材(PRリンク【進研ゼミ小学講座】)で学習しているだけで、以下のような実績をあげてくれています。

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その原動力となっているのは「読解力」。

藤井聡太さんの「脳内計算力(=先を読む力)」が桁外れに速いことと比べるのはなんですが‥‥(苦笑) ウチの子の「脳内解析力(速読力)」もかなりのものです。

そして、その速く「読める」能力を活かして、たくさんの本を楽しんで読み続けている蓄積・効果が、高い「解析力=読解力」につながっていることを感じています。

図式にすると、以下のようなイメージです。

乳幼児期からの
読み聞かせの蓄積

大の本好きとなり
多様な読書の習慣化

好奇心をエネルギーに
難度を超えて消化吸収
できる読解力を獲得

夢中になって本を読んでいるときの姿は、「ピタリ」と動かずとても静かです(まるで思考中の棋士のように)。

でも、頭の中では、多種多様な脳内イメージがとても素早く豊かに躍動し “息づいている” のが、傍からでも感じ取れます。

棋士の脳内で、将棋盤上の駒が目まぐるしく動いているかのように(聡太さんの場合は「将棋盤と駒」ではなく「符号」が動いているようですが)。

このような脳内活動の特徴は、普段の小学校生活ではあまり表に現れることはないようなのですが、前述の『全国統一小学生テスト』のような “レベルが一段アップ” した場においては、その潜在的能力のポテンシャルが発揮されるようです。

藤井聡太さんと将棋のように、「自分はこれ!」という出会いが幼少のうちにあるとよいのですが、そうしたケースは残念ながら、ごくごく稀な “超レアケース” なのだと思います。

では、そのような “千載一遇の出会い” を得ることのできない「大多数の子どもたち」はどうするのが望ましいのでしょうか?

その最も効果的な「準備策」が、『読み聞かせ(読書)』なのではないでしょうか。

いまみてきたように、「読み聞かせ(読書)」は、「頭の中(=脳内)でイメージを描く力」を養う点で、とても効果が高い方法です。

幼少期に「読み聞かせ(読書)」を通じて、「頭の中(=脳内)でイメージを描く力・膨らませる力の土台」を築いておけば、子どもが長じて10代後半~20代となって「自分のやりたいこと」が定まってきたときに、その土台を「基盤」として、自らの能力を自らのイメージ創造力でもって開花・発展させていくことが期待できます。

同時に、「読書」が好きであればどのような分野であれ、「本」を通して定めた道・方向性を存分に “深掘り” していくことが可能です。

その意味で、「読み聞かせ(読書)」は、どのような未来・将来に対しても有効性のある「万能薬」と言えるのではないでしょうか。

“将来” というほど先のことでなくても、読書で身につく「読解力」は、どんな教科・勉強にも役立つ「万能薬」でもあるので、強くおすすめします。

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右脳・イメージ脳の育脳は「そろばん」も汎用性あり

頭の中(=脳内)でイメージを描く力」を養う、もう一つのシンプルな方法は、「そろばん」です。

なかでもここでは、『珠算式暗算』というそろばん独特の暗算法を中心に紹介します。

『珠算式暗算』とは、頭の中で「そろばん」をイメージし、そのイメージ上でそろばんの珠を使って脳内で計算をする暗算法です。

この脳内で「そろばん」をイメージしてその珠を動かすという一連の流れは、当記事の主題でもある「将棋」において、棋士が脳内で行っている内容と一致します。

この『珠算式暗算』を行うそろばんの有段者の脳内活動と、プロ棋士の脳内活動は、科学的にもとても親和性が高いものであるそうです。

具体的には、以下に掲載をするリンク先の記事にて詳しく紹介されていますが、ここではその中でも特に興味深い一節を抜粋・引用しておきます。

引用内容出典先:脳波から見た”そろばん”有段者のイメージ思考 – 日本珠算連盟

~前略~ そろばんが得意な方々は珠の動きのイメージだけで、いちいち言葉に置き換えてはいません。その違いが脳波に現れていると考えられます。
このような脳の使い方は、そろばんの有段者に限ったことではありません。例えば将棋のプロが対局したり、詰め将棋を解いている際にも、似た脳波のパターンが見られます。つまり、イメージがくっきり浮かび、いちいち言語化しなくとも思考を進められるような時には、左側頭のベータ波は小さく、右後頭に大きくなるわけです。そのようなプロ棋士でも、暗算中は普通の人と同じようにベータ波が左脳に多めに現れます。そろばんの有段者とてその点は同じで、すべての場面で右脳を使っているわけではありません。

上掲引用部分の中で、特に注目したいのは以下の部分かと。

例えば将棋のプロが対局したり、詰め将棋を解いている際にも、似た脳波のパターンが見られます。

つまり、脳内に「そろばんのイメージ」を創り出してそのイメージ上で計算をする『珠算式暗算』の有段者の脳内と、将棋のプロ棋士が脳内に「将棋盤のイメージ」を創り出してそのイメージ上で手順を思考している際の「脳波のパターン=脳内の働き」は “似ている” ということです。

ということは・・

そろばんを習って、仮に有段者レベルぐらいまでに上達することができれば、あの・・藤井聡太さんのような「頭(脳)の使い方」を習得することができるかもしれない!ということになるのかと。

プラス、「そろばん」の注目すべき点は、大人になってから始めても「有段者」となれるケースがある点です。

その点はおそらく、そろばんの場合は “珠を動かす動作パターン” の組み合わせが限られているので、「頭の中で珠の動きをイメージ」するという技法を習得するのも、将棋と比較すれば容易だからなのだと思います。

【参考】将棋の指し手のパターンは、「10の220乗」もの可能性があると言われています。

将棋に限らずですが‥‥

藤井聡太さんと同等レベルの「頭・脳の使い方」を習得するのであれば、それこそ0歳児の頃からの積み重ねは必須でしょうし、その子の持つ資質・素質がどれほどであるか?という側面に左右される点も、非常に大きくなってくるとは思います。

ですが!

同等レベルではなく、「同じような能力=頭の中(脳内)でイメージを描く能力」の習得を目指すのであれば、話しはまったく違ってくると思います。

「そろばん」であれば、大人になって始めてからも「有段者」となれるので。

その点を考慮すれば、

ある保護者さん
「頭の中(=脳内)でイメージを描く能力」に関しては、ウチの子の年齢だと、いまから始めてももう難しいかな‥‥

と、思う必要はないのではないでしょうか。

少なくとも、子どもが小学生のうちは、まだまだ大きな可能性が残されているのではないかと感じます。

仕事で「人材教育」に携わった経験からしますと、何かしらのキッカケさえあれば、人はいくつになっても能力を大きく開花させる可能性がありますので。

 

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遊びも子ども尊重で

当記事ではここまで、藤井聡太さん一家の幼児教育が、聡太さんの天才性・才能の開花にどのような影響や効果を与えてきたかをみてきました。

これまでみてきたように、彼の乳幼児期~幼少期の成長プロセスを順を追って丁寧に確認していくと、偶然とは思えぬほどに “適切なタイミング” で出会ってきた数々の「遊び」を通して、あの類い稀なる能力を身につけてきたことがみえてきました。

ポイントとしては、聡太さんのご家族が、「こーゆー風に育って欲しい」といったような何かしらの意図を持って彼に「遊び」を与えたわけではなく、いくつかの「遊び」を与えていったなかで、彼自身が “自然と夢中になった” 遊びを、彼の気が済むまで存分にやらせてあげていたのだろう、という点です(たとえば、祖父が囲碁も教えたそうですが、聡太少年は囲碁には興味を示さなかったそうです)。

藤井家の幼児教育のモットーの一つは、「子どもには子どもの時間がある。大人はそこに立ち入ってはいけない」でした。

先でもふれた点ですが、この考え方には、子どもを尊重し、その気持ち・意思を重んじるがゆえ、まずは大人の考え・見方を介在せずに「子どもを見守っていこう!」とのスタンスが表れているのだと思われます。

藤井家の場合は「子どもを尊重する」という姿勢が本当に基本となっていて、「遊び」に関してまでも、その姿勢がきちんと貫かれていた点が、聡太さんの才能の開花につながったのだと見て取れます。

理想の幼児教育への大きな問い

藤井聡太という類まれな才能を育んだ、藤井家の幼児教育。

その藤井聡太一家の幼児教育の具体例に、子育て・育児における理想の効果や大切なことを学んでいくと‥‥ 最後に大きな「問い」も浮かんでくるのでした。

大人社会全体が、もっと子どもを信用し、過度な介入をせず子どもを見守り、子ども一人ひとりが自らの感性・感覚で選び取ることを信用してあげれるようになれば、子どもは皆、才能の翼を大きく広げることができるのではないか?

藤井聡太さんのように「自分はこれ!」というものが早い時期に定まるケースは稀だとしても、それでも! 聡太さんのような「頭の中(=脳内)でイメージを描く能力」を「遊び」を通じてワクワクしながら習得・体得していくことは、多くの子どもたちができることなのではないか?

と。

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